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吉祥寺 東京23区内 10分以内に関する旅行記

1995春、韓国紀行4(10):5月19日:束草・洛山寺、ケ...

2010/08/29 03:08:47

<1995年5月19日>

<洛山寺(ナクサンサ)>
 束草から南に8km程度の海岸に面したところに、関東八景の一つ、洛山寺はありました。新羅時代に義湘大師によって建立されたという古刹です。
 洛山寺の少し南は、洛山海水浴場になっています。海岸線はほとんど鉄条網で防御されていますが、一定範囲では海水浴場も造られているようです。少し記憶が薄れましたが、要所、要所の突堤などに見張台が設えてあり、厳しい監視がされているようでした。
 この洛山寺の近くには、大きな観音像があります。戸外に建っていますので、遠くからでもよくその位置が確認できました。海水観音菩薩(ヘルカヌムポサツ)と呼ぶようです。ガイドブックで調べましたら、1978年の製作で、台座が2.8m、本体が16mあると記されていました。迫力満点の像です。
 

<束草からソウルへは飛行機で>
 Otさん念願の束草の手漕ぎの渡し、ケッペにも乗船することが出来ました。こちらは泊まったホテルから10分以内で歩いて行ける距離でした。
 昨日のことがありましたので、少し気を揉みましたが、束草からソウルへ向けての飛行機は、無事に飛び立つことが出来ました。束草の街から飛行場までは、車で30分とはかかりません。
 この飛行場は、少しもやった時に、飛び立つことは易しいですが、降り立つことが難しい地形なのかも知れません。飛び立った後は、一旦、東海(日本海)の海上へ出て、右に旋回して金浦空港へ向かいました。
 左旋回しないのは、誤って北朝鮮の領空に入らないための用心のようです。それほど束草は北に近い街です。それと、一旦海上に出るのは、飛び立って直ぐに、高い山脈を越えるのを避けるためであるのかも知れません。
 韓半島の東側は雪嶽山を含め、高峰が連なっています。ソウルまではこの山脈を越えて、ほとんどまっすぐに西進しました。山脈を越えた後は余り高度を上げませんので、曲がりくねった山道や、民家など、地上の様子がよく見えました。昨日5時間もかけて苦労した道のりを、わずか30分程で金浦空港に到着しました。

<ガイドさんから聞いた韓国住宅事情>
 ガイドさんからは、現在の韓国事情や、彼女の家庭のことなど、色んな役に立つ話しをお聞きしました。例えば、韓国の住宅事情ですが、ソウル市内の南部一帯が高級住宅地になっていると言います。しかし、あまりに都市化が進んだので、戸建に住むのは難しく、みんなマンションになったようです。
 このマンションは3億から4億ウォンもすると言います。日本円で3千万から4千万円に相当します。韓国の平均収入が日本の2分の1であることを考慮しますと、日本円では6千万から、8千万円にも相当します。いわゆる日本の億ションに近い値段です。
 この高級マンション群があるソウル市南部に住むのが、一つのあこがれになっているとお聞きしました。この地域以外では、少し値段が安くなるといいますが、それでもソウルの住宅事情は、日本並か、それ以上に厳しいようです。
 市内観光のマイクロバスの中から、それらの高層マンションを教えてくれましたが、造りそのものは、高級と言った感じはしません。極めて実用的な外観をしていました。

<ガイドさんから聞いた韓国の受験戦争>
 ガイドさんは日本の受験戦争のことは知っていると言われました。しかし、

 「韓国での受験戦争は、日本よりもっと凄いです」
 
 と断言されました。

 「自分の弟も、今大学の受験勉強中です」

 とも教えてくれました。なぜ大変かと聞きますと、

 「韓国では男子の兵役義務があるから、何としても大学に入学させたい」

 と、親が頑張らせるそうです。ガイドさんの家庭も同じだと言われました。もし、大学入学できないと、直ぐに兵役義務が待っていて、入学できれば、免除ではなく、兵役義務が延期されるようです。ガイドさんは、

 「自分も大学に行かせてもらえたので、今は弟を精一杯支援している」

 と熱を込めて話してくれました。

 「一流の大学を出た後は、国家公務員が一つのコースです」

 とガイドさんが教えてくれました。これも日本と同じ事情のようです。もっとも、この回想記を書いている1999年では、日本も、韓国も国家公務員に対する見方は大分事情が変わってきたようです。
 事情が変わった原因は、経済危機、腐敗・汚職、行政改革と言ったキーワードが、どうやら共通しているためのようです。経済危機も浄化作用を伴うものであれば、歓迎できる点もあります。


  洛山寺を回想して
 古寺や東海(トンヘ)を望む遠霞

 夏近し岩を伝いて寺参り

 潮騒が歴史を語る寺の春

 韓の国司馬遼偲ぶ松若葉

2004夏、フランス旅行記(2):6月22日:インチョン空港...

2010/08/29 11:08:15

<2004年6月22(火)>

 日本出発は22日のKE752便、9時30分の出発なので、名古屋空港は7時30分集合です。集合と言っても、HI*のカウンターでチケットを受け取るだけです。多少の時間のずれがあっても、迷惑を掛けることはありません。しかし、地下鉄は順調で、時間ぴったりに空港へ到着しました。早速、いつもの北カウンターでサインをしてチケットを受け取りました。

<名古屋出発、ソウル乗換え>
 平日なので、空港は空いていました。しかし、高校生と見られる団体客が集まってきたましら、途端に出発ロビーは賑やかになりました。先生の統率も感じられない、あまり躾のよさそうでなかったこの団体は、ソウルまで、同じKE752便に乗り合わせました。
 KE752便は、予定通りの時間に名古屋空港を飛び立ちました。その高校生の団体は、飛行機が飛び立った後でも、機内で騒がしく、閉口しました。まるでジェットコースターに乗ったような騒ぎ方でした。
 それでも、ソウルまでの空の旅順調でした。ソウル、インチョン国際空港での乗換時間は2時間ほどありました。トランジットの検査を受け、昇りのエスカレータで出発ロビーに出ました。ショッピング街を覗いたり、軽食を摂って時間を過ごしました。

<シベリア上空経由、パリ着>
 日本からヨーロッパへの航路は、シベリア上空経由が標準になっているのでしょうか、今回もこのコースでした。もう少し飛行経路を細かく説明しておきます。インチョン国際空港から西へ向い、十分に半島を離れたところで北に進路を変えました。天津(テンシン)上空を経由して北上し、北京方向へ向かいました。 そのまま、やや進路を西に向け、モンゴルの首都、ウランバートル方面からロシア、シベリア地区に入りました。ロシア領内を通り過ぎる頃は、仮眠時間でした。これは後で、モニター画面表示で飛行経路を確認出来ました。
 シベリア上空を長い時間飛んだ後、モスクワのかなり南を通過し、ウラル山脈を越えて北ヨーロッパに入りました。画面に表示された地名には、よく見聞きする、北ヨーロッパの首都や大都市がありました。英語とハングル表記に交互に変わる画面を見ながら、パリに近づくのを待ちました。ソウルを出発して12時間近く、ようやくパリの北郊外のシャルル・ドゴール空港に無事着陸しました。
 入国審査の列は短かった。しかし、たまたま並んだ列にアラビア系のグループがいて、審査官が別の人を呼んで相談を始めましたので、その列を諦め、隣の列に並び直しました。そちらの列の進み具合は順調でした。質問事項も無く、簡単に手続きが完了しました。先ほどのアラビア人グループも、どうやら入国審査を終えたようでした。

<HISの現地ガイドさん>
 手荷物以外に預けた荷物がありませんので、その後の手続きも簡単でした。それで、ゲートを過ぎた後、出迎えコーナーでHI*からの出迎えのガイドさんを探しました。日本を出発する時に貰った、目印の赤い色のボールペンを胸のポケット指しておきました。そのガイドさんとも、すぐに落ち合えました。
 現地ガイドさんは、
 「18時25分到着予定時間より30分ほど早かったので、まだ、会社の車も到着していません。もう一組、みえますので、付近で暫く待ってください」
 と、伝えられました。この時、すぐ近くに両替店の赤い看板が目に入ったので
 「そこで両替してきます」
 と、ガイドさんに告げたら、
 「ホテルの方が、率がいいので、両替される場合も最小限にした方がいいです」
 とアドバイスされました。それで、1万円程度、両替しておこうかと、かなり迷ったものの、結局すべてホテルで両替することに決めました。このことで、後で苦労することになりました。
 この現地ガイドさん、
 「フランスでの仕事が6年目になりました」
 との話しでした。15分ほど待ったら、私と同世代のカップルが大きな荷物を持ってゲートから出てこられました。この方達もフリー旅行を選択されていましたので、旅慣れされているようでした。ヨーロッパもかなりの回数、旅行されているお話でした。今回は、オペラ観劇を一番の楽しみにされているとも話されていました。
 まだ迎えのバスは到着していませんでしたから、到着ロビーの一角の椅子で、必要な資料を受け取り、説明を受けました。この時に受け取った地下鉄回数券が、この後大いに役に立ちました。
 10分程経ったら、迎えのマイクロバスがやって来ました。飛行便の到着時間に合わせた時間でした。空港からは17番街にある、私が泊るホテルに先に送ってもらいました。この方が順路のようです。
 バスは1時間とはかかりませんでしたが、そのバスの中で、ガイドさんと色々情報交換をしました。
 「アジアでは韓国の『冬のソナタ』がブームになっていますが、こちらではどうですか?」
 との質問では、
 「私は映画ファンなので、色々と見ていますが、こちらでは『冬のソナタ』の話題はまだ聞いていません」
 との返事でした。
 「テレビドラマなので、こちらには紹介されていないのでしょう」
 が結論になりました。
 ガイドさんからは、スリ被害などにも会わないよう、色々とアドバイスを受けました。
 「自分で車を運転されることもありますか?」
 との質問には、
 「凱旋門付近で、6列ぐらいに並んで車が走るのを見たら、とても自分で運転する気は無くなりました」
 と話してくれました。また、
 「パリは駐車場が少ないので大変です。バンパーで前後の車を押して駐車したり、発車するのは当たり前です」
 とも聞きました。どうやらイタリアのローマなどと事情が同じようです。
 バスが着いたのは、かなり大きいホテルの前でした。私は、フランス語が全く出来ないことを、ガイドさんからフロントの係りの方に説明してもらい、チェックインの手続きを手伝って貰いました。
 英語も交えて説明を受け、鍵代わりのITカードと朝食のミールクーポンを受け取りました。HISのガイドさんはエレベーターまで案内しようとされたが、
 「バスで待ってみえますから、ここで結構です」
 とお断りして、お別れしました。

<両替>
 空港で1万円でもユーロに両替しておけば、この日、苦労することは、ありませんでした。しかし、結果論です。部屋に荷物を置き、シャワーを浴びて食事に出ようとし、フロントで両替を頼みました。
 ところが、
 「このホテルでは両替は全くやっていません」
 と、断られてしまいました。部屋に戻って資料を確認しましたら、ホテルの説明のところで、両替の項目に「×」が打ってありました。ホテルの大きな構えで、油断したのがいけませんでした。
 それで、何とか両替店を探そうと、この晩努力しました。無一文で、頼りは地下鉄の回数券10枚だけです。ホテルで両替が出来ないことが分かったのが、夜の9時半頃でした。
 まず、最初に考えたのが大きなホテルでの両替です。地図で付近の大きな町を探しますと「サン・ラザール」駅が見付かりました。地下鉄で4つ目の駅です。地図を見ると、近くに三越デパートなどがありました。予想した通り、駅から歩いて10分以内のところに、5つ星クラスの大きなホテルが見付かりました。雨が降り続いていましたが、弱い雨でした。
 そのホテルには、ボーイさんが何人かドア付近に屯しており、軽く会釈してドアを入ると、右手に大きなデスクの案内がありました。ホテルとは別のレストランなどの案内も兼ねているようでした。そこで、年配の受付の方に
 「日本円を両替したいのですが」
 と訪ねましたら、幸い英語が通じて
 「ホテルのフロントで受付ています」
 とその方角を指差してくれました。ホテルのフロントには3人のまだ若い方が詰めていました。
 「日本円をユーロに両替したいのですが?」
 と訪ねると、幸い英語が通じました。3万円を渡そうとしましたら、
 「2万円までにしてください」
 と言われ、
 「ユーロは左横のカウンターで出します」
 と、案内されました。ここでサインをして簡単な書類を差し出すと、
 「部屋番号を記入してください」
 と差し戻されました。
 「私は近くの小さなホテルに泊っていて、ここには泊っていません」
 と、答えますと
 「部屋番号を記入してください」
 の一点張りでした。それで、このホテルでの両替は諦めることにしました。一旦は両替できそうだったので、できないとわかった時には、少なからずがっかりしました。適当な部屋番号を言っても、多分同じ結果になったに違いありません。
 次の頼みの綱が、サン・ラザール駅の案内所でした。駅の両替所は閉まっていましたが、案内所だけは開いていて、4人の男性の方が詰めていました。
 「日本円をユーロに両替したいんですが、近くに店はありませんか?」
 と訪ねますと「円?」と聞き直しながら、4人で顔を見合わせた後、
 「シャンゼリゼ大通りならやっているかも知れない」
 と教えてくれました。ここでも何とか英語が通じました。気を取り直して、また地下鉄に乗って、1号線との交差点駅シャンゼリゼ・クレマンソー駅で降りました。
 ここから西に歩けばシャンゼリゼ大通りです。その向こうには凱旋門が小さく見えていました。しかし、23時を大分回り、雨も強くなりましたので、今日は諦めることにしました。地下鉄の終了時間を過ぎれば、タクシー代も無いので、本当のトラブルになってしまうからでした。人通りも全くといってよいほどありませんでした。

<早速役に立ったオールドパー>
 海外旅行の時に例外なく旅の友となるのがスコッチウイスキー、オールドパーです。今回も名古屋空港で1本手に入れておきました。これが、早速役に立ちました。3時間ほど両替場所を探して頑張ってみましたが、結局駄目でした。小銭もないので、この晩は自動販売機もコンビニも利用できませんでした。
 手元にあったのは、このオールドパーと、機内で偶然残しておいたピーナツ、それと部屋にあった茶菓子だけでした。生水は怖いので、部屋にあった電気ポットを使って、まず水を沸かしました。
 沸かした後で、少し冷まして、ホットウイスキーにしました。本当は、冷たいミネラルウォーターが欲しかったのですが、部屋には冷蔵庫も無かったし、ホテル内に自販機があっても、肝心のコインが全くありません。
 それでも、無いよりは随分ましで、テレビを見ながら明日の作戦を考えました。そんなことで、益々、オールドパーが好きになりました。旅の友から1ランクか2ランク上がって、私の「戦友」になりました。


  ホテルの部屋で
 パリの夜は更ゆき一人飲む酒はオールドパーなる旅の戦友

 長旅の疲を忘れパリの街空から眺めんシャガールのごと

2006冬、アメリカ旅行記(7):2月26日(1):ワシント...

2010/08/28 10:08:07

<2006年2月25日(土):アメリカ時間>

 ワシントンDCの見学が、今回旅行のハイライトの1つとなりました。待合せのペンシルバニアホテルが6時半の約束でしたから、5時15分にはホテルを出発しました。早朝からの中身の濃い半日小旅行です。

<早朝の出発、待ち合わせのホテルへ>
 昨日の内に、待合せ場所の下見をした結果、タクシーは呼ばずに現地まで歩くことにしました。その時間を30分と読みました。それで、途中で朝食をとることにし、マグドナルドのお店に入りました。店の中には、ここで夜を過ごしたらしい人達が何人かいました。注文したのは、ハンバーガーとホットコーヒーのスモールサイズです。
 セルフサービスの水がありませんでしたから、熱い思いをしました。太いストローで注意深くコーヒーを飲んだつもりでしたが、想像を超える熱さでした。余り熱くて、皆さんも、半分程は残されたようです。

<電車でワシントンDCへ>
 待合せのペンシルバニアホテルには、時間少し前に到着しました。現地ガイドさんに6時45分発のチケットを入手して貰い、ここでお別れしました。ワシントンDCでは、別のガイドさんが出迎えてくれる手筈です。始発駅でしたから、最初は空いていました。ワシントンDC駅まで、約3時間の列車の旅です。途中からは、次第に満席になってきました。
 ワシントンDCの表記は、ワシントン州と区別するためです。DCはコロンブスに因む『The District of Columbia(コロンビア特別区)』の略です。
 入り組んだ海岸線か、湿地他のような場所を長く走って、終点駅に到着しました。終点駅の少し手前には、ワシントン空港駅がありました。

<最初に国会議事堂見学>
 ワシントンDC駅では、ペンシルバニア駅でお別れしたガイドさんが教えてくれた場所に、案内のガイドさんが待っていてくれました。ツアー参加者は、私達3人を含めて7名でした。ワゴン車での見学です。最初の見学地の国会議事堂のことを、少し紹介しておきます。
 ウィリアム・ソーントンが設計し、1793年に着工、1800年11月に完工しました。その後、増改築が行われ、長さ250m、幅115m、部屋数540余りの規模となりました。上院は6年任期の100議席で、その1/3が2年ごとに改選されます。下院は、435議席が州の有権者数で配分され、任期は2年です。全員が改選され、2回に1回は大統領選と重なります。

<ホワイトハウス>
 ホワイトハウスは、アメリカ合衆国の大統領とその家族が住む官邸です。転じて「アメリカ合衆国政府」のことを指す事もあります。その名前の由来から紹介します。現地ガイドさんも同じことを話されていました。
 ホワイトハウスは、米英戦争で1812年に被害に遭い、外部を残して焼失しました。その復興工事の際、一部を除く外壁が白く塗られ、ホワイトハウスと呼ばれるようになりました。
 その後、増改築が繰り返され、現在は4階建て132部屋あり、地下には核シェルター機能を持った作戦司令本部があります。屋上ではシークレットサービスの狙撃手が24時間待機しています。内部の見学コースもありましたが、9・11以降は、警備が厳しくなっているようです。
 9・11同時多発テロでは、ニューアーク発サンフランシスコ行ユナイテッド航空93便がハイジャックされ、ワシントンDCに15分の場所で墜落しました。ホワイトハウスが標的にされた可能性があります。政府は、公式には否定していますが、戦闘機に撃墜された可能性もあるようです。
 車の乗り入れが厳しく規制されていますので、少し離れた場所へ駐車しての見学でした。

<リンカーン記念堂>
 第16代大統領エイブラハム・リンカーンを記念して、1922年に建てられた白亜のギリシャ神殿風の建物です。椅子に座った高さ5.7メートルのリンカーン像が据えられています。歴代大統領で、最も背が高かった人です。リンカーンは1863年、奴隷解放を宣言しました。民主主義の理念を貫きましたが、1865年に暗殺されました。
 像に向かって左側の壁には、ゲティスバーグで行った有名な演説、「人民の人民による人民のための政治」という名言が刻まれています。演説の最後に近い部分です。
注意して見ないと、見落としますが、この場所で演説を行ったマ マルティン・ルーサー・キング牧師の『アイハブ ア ドリーム』の文字が石面に刻まれています。非暴力で黒人民権運動を指導した彼もまた、1968年暗殺されました。
 記念堂の前には、リフレクティング・プールと呼ばれる細長い池があります。高いワシントン塔の全長を、この池に映すことができます。

<朝鮮戦争、戦没者碑>
 朝鮮戦争は、1950年6月25日午前4時、北緯38度線で北朝鮮軍の砲撃が開始され、30分後には約10万の兵力が38度線を突破したことに始まります。
 6月27日、国連安全保障理事会はソ連が中国政府認証問題に抗議して欠席中に、『北朝鮮弾劾決議』を採択、韓国を防衛するためアメリカ軍25万人を中心としてイギリス、オーストラリアなども加わった国連軍を結成しました。
 当初、劣勢だった国連軍は、9月15日、マッカーサー元帥が仁川上陸作戦を成功させ、ソウルを奪還しました。10月1日、韓国軍は祖国統一の好機と踏み、国連軍の承認を受けて、単独で38度線を突破しました。更に、中国の周恩来首相の警告を無視し、10月9日、国連軍も38度線を超えて進撃しました。
 参戦には消極的だった中国も、北朝鮮の金日成主席の要請を受けて義勇軍を募って参戦しました。最前線だけで20万人規模、後方待機も含めますと100万人規模という大軍だったとされます。
 ソウルの支配者が二転三転する激しい戦闘の結果、400万の犠牲者が出たとされます。その後、戦況は38度線付近で膠着状態となりました。この碑は、アメリカを始めとする国連軍として参加した17カ国の戦没者を祀るものです。
 1953年7月27日、板門店で北朝鮮・中国と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、3年間続いた戦争は終結しました。
 その後、2000年6月の南北首脳会談以降、停戦当初に比べれば融和の兆しが見えましたが、双方の和解は行われていません。未だに準戦時体制であり、国際法上の戦争は終結していません。同胞が争った戦争ですから、計り知れない傷の深さが残ってしまいました。

<ペンタゴン>
 ペンタゴンの写真撮影は固く禁止されています。最近も、車を降りて写真撮影しようとしたアジア人が、すぐに連行されたと、ガイドさんが教えてくれました。その理由は、9・11同時多発テロにあります。その時のペンタゴンの状況から説明します。
 国防総省の本部は、五角形を意味する『ペンタゴン』で呼ばれる、5階建てで、各床に環状の廊下があります。この構造により、世界最大のオフィスビルでありながら、一番遠い所へも10分以内で移動できる構造になっています。1943年1月15日に完成しました。
 そのペンタゴンは、2001年9月11日、テロリストにハイジャックされた民間航空機が衝突し、一部が崩壊、炎上しました。その後、元の石材と同じものを使用して迅速な復旧がなされました。遠くから見ても石材の色が微妙に違っていますから、修復の痕が看て取れます。
 9時38分にアメリカン航空77便(ボーイング757)の突入を受けました。大爆発が引き起こされてビルの一部は炎上し、10時10分に4階が崩壊、10時15分に1階までが全て崩壊しました。77便の乗客・乗員全員が死亡するとともに189人の国防総省職員も死亡しました。
 情報が錯綜し、最初の報道は炎上というだけでしたが、後に付近を通行中のドライバーや歩行者によって、航空機激突の目撃が証言されました。ボーイング757機の巨体は焼失していました。
 写真を撮ってはいけないといわれても、走行中の車の中からだと大丈夫だと思って、何枚か撮影しました。同じように、荒金さんや、井上さんも撮影されていました。

<ショッピングモールでの昼食>
 ペンタゴンの前をノンストップで通り過ぎて、ショッピングモールに到着しました。マンハッタン地区に隣接する区域です。ここで、1時間半程の自由行動となりました。昼食とショッピングです。
 食事は、各国料理の店が並んでいましたから、その中から選ぶことができました。3人の意見が一致したのが、中国料理のお店でした。焼きそばか、炒飯をメインディシュに、仕切りが付いた皿に、好みで選んだ2種類のおかずを盛って貰いました。
 問題は飲み物です。後でガイドさんにお聞きした話ですが、酒類販売の免許の費用が高いので、殆どのお店が、ソフトドリンクだけだそうです。それでも、何とか販売しているお店を探し出し、ハイネッケンの缶ビールが入手できました。食事と飲み物合わせて、3人分で28ドルでした。
 食事の後は、私たち三人も、全員の待合せの時間まで、自由行動です。専門店も入った大型ショッピングモールでしたから、見所はたくさんありました。ニューヨークより税率が低いですから、買い物にも好適でした。

<アーリントン国立墓地>
 昼食の後の見学は、アーリントンの国立墓地でした。ポトマック川岸、バージニア州側の小高い丘の上にあります。200エーカーという広大な墓地には、独立戦争やベトナム戦争等、アメリカのために命を犠牲にした兵士達など、約26万人が眠ります。
1963年にテキサス州ダラスで遊説中に暗殺された35代大統領J.F.ケネディも、夫人、子供と共にこの墓地に眠っています。ここには、埋葬されてからの灯された炎が、静かに燃え続けています。
 靖国参拝問題で、国立追悼施設が話題に上がり、その折に引用される1つが、アーリントン国立墓地です。ワシントンを訪れた各国首脳は、例外なくこの墓地を訪れ、無名戦士の墓等に献花をされるようです。その墓地について、少し説明をしておきます。
 墓地への埋葬の費用は、すべて国費で賄われます。その際、どの宗教を選択するかは、生前の故人と、遺族の自由です。プロテスタント、カトリック、ヒンズー教、ユダヤ教、仏教、無宗教でも構いません。
 アーリントン国立墓地は、1864年、南北戦争の戦死者を葬るために設置されました。その後、1921年3月4日、アメリカの議会は、第1次世界大戦で仆れたアメリカ兵士の葬儀を、アーリントン国立墓地の追悼場で行なうことを決議しました。これがアメリカでの国家規模における無名戦士の墓の発端となりました。
 その後、第2次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争の戦死者も葬られました。イラク戦争とその後の犠牲者で、今なおその数を増しているようです。

<スミソニアン航空宇宙博物館>
 現地ガイドさんの一番のお勧めが、このスミソニアン航空宇宙博物館でした。ガイドブックにも、スミソニアンの各種施設でも1、2位を争うと紹介してありました。夏休みに入ると、特に混み合うようです。
 無料でしたが、入場する時には、保安検査がありました。見所を教えて貰った後で、ここで2時間以上の自由行動になりました。国立美術館も時間をかけて見学したかったので、早足の見学となりました。
 飛行機から音速ジェット機までの航空機の歴史的展示や、当時のソビエトと先陣を争った、人工衛星、有人宇宙飛行等の展示は、僅かの時間を惜しんで見学しました。月の石にも直に触れることができますし、大気圏突入の際に焦げ付いた船体、ソビエト連邦がロシアに代わっての、宇宙ドッキングの展示なども見応えがあります。

<国立美術館>
 正式名称は『National Gallery of Art』です。世界でも5指に入るといわれる収蔵品を有しています。ダ・ヴィンチから、ピカソ、ウォーホールまで、13世紀から現代までのヨーロッパ、アメリカの膨大なコレクションが展示されています。
 この日、正面玄関は閉まっていましたが、西館からの入場ができました。スミソニアン本部に属していますから、他の博物館、美術館と同様に無料開放されています。フラッシュを焚かなければ、撮影も自由です。
 印象に残った作品の中で、エル・グレコについてだけ触れておきます。昨年(2005年)2月、彼の作品が多く収蔵されている、スペインのプラド美術館でも鑑賞することができました。大原美術館にも作品があります。
 グレコは、ギリシャ領のクレタ島出身の16世紀の画家です。本名はドメニコス・テオトコプーロスです。一般に知られるエル・グレコの名は、スペイン語で『ギリシャ人』を意味する通称です。
 当時ベネチア共和国の支配下にあったクレタ島で、初めにイコンを学び、後にイタリアのベネチア、ローマに渡ってティツィアーノに師事し、ベネチア派絵画を学びました。1577年、36歳でスペインのトレドに渡り、没するまでスペインで宮廷画家として活躍しました。
 彼の画は、マニエリスム、バロック様式に分類されます。暗い画面、縦に長い構図、複雑なポーズの人体などが特徴です。死後、長らく評価されませんでしたが、19世紀に再評価を受け、ピカソ等、20世紀の芸術家にも影響を与えたとされます。収蔵品は、写真編の方でご覧ください。

<食料を買い込んで、帰路に>
 ニューヨークへの戻りの列車は、5時過ぎでした。それで、駅構内のお店で軽食を買い込んで、車中で夕食代わりにすることにしました。リカーショップもありましたから、缶ビールと、ねじ式の小瓶のワインも買い求めました。初日に比べると、1/10程の費用の夕食になりました。
 翌朝はラスベガスへの移動日ですから、ホテルへ戻って解散となりました。ホテルのバーで水割りを飲んで、この日は少し早く就寝しました。


  リンカーン記念堂で
 人民の言の葉三度繰返し歴史を語る白亜の座像

  アーリントン国立墓地で
 永遠の炎は静に燃続けテロの愚さ諭すが如し

  航空宇宙博物館で
 月面に着陸したるその昔心踊し石に触おり

  国立美術館で
 エル・グレコ展示の部屋に人影の少く吾を忘れて見入る

2006暮、中欧旅行記(4):12月15日(1)チェスキー・...

2010/08/28 08:08:35

<2006年12月15日(金)>

 この日の予定です。6時45分にモーニングコール、荷物出しが7時30分、ホテル出発が8時30分でした。モーニングコールの時には、出発準備を終えていました。プラハでの2泊を終えて、今日はオーストリアのウィーンへの移動です。その途中で、世界遺産のチェスキー・クロムロフに立ち寄る計画となっていました。
 昨晩の夕食の集合時間に間に合わず、皆さんにご迷惑をおかけしましたので、朝食のレストラン等で、それぞれにお詫びをしておきました。

<ウィーンへの移動>
 今回のツアーは、チェコのプラハからオーストリア、スロバキアから最後のハンガリーのブタペストまでバスで移動の旅でした。運転手はスロバキア人のアロイスさんです。長い道中、ずっと安全運転でした。
 予定通り8時半にホテルを出発しましたが、朝の交通渋滞に遭いました。しかし、それも考えようで、プラハ市内の歴史建築をゆっくり眺めながらの移動となりました。プラハ駅や国立博物館の建物などです。窓ガラス越ですが、車が止まった時に、これらの建物の写真を撮ることができました。
 市街地を過ぎると、渋滞はなくなりました。あっという間に郊外の景色に代わりました。プラハの飛行場を飛立った飛行機雲が、斜め一直線に伸びて、青空を切り裂いていました。良く見ますと、長い飛行機雲には、その軌跡の中に、距離を置いて複数の飛行機が飛んでいました。

<中世の町、チェスキー・クロムロフ>
 手元のガイドブック(ポケットガイド、プラハ・ブタペスト・ウィーン:JTB)から、簡単にチェスキー・クロムロフを紹介しておきます。今回の旅行で、特に印象が残った中世を思わせる街でした。
 チェスキー・クロムロフは、モルダウ川がS字に曲がる箇所に沿って造られた1キロほどの街です。8世紀から最初の定住が行われ、ボヘミアの歴代の大貴族によって統治されてきました。
 街は手工業と商業によって発展し、それぞれの時代を反映した建物で、次第に街が形成されていきました。その建物の数は約300です。1992年に世界文化遺産に指定されました。
 チェスキー・クロムロフへ到着したのは、昼に近い時間でしたが、緯度が高いため、眩しい光が低い位置から射し込んでいました。アーチ型の通路を持ったお城の屋根付きの回廊の下を潜ると、まさに別世界が飛び込んできました。

<洒落たレストランでの昼食>
 中世を思わせる街の通路は、全て石畳でした。その石畳の道を歩いて、中心部の広場に出ました。そこには、いくつかの露店がお土産の品を売っていました。
 石畳の道を歩きながら眺めるお城や、教会の尖塔を眺めるのも、随分と興趣が湧きました。町全体が観光地となっていて、世界遺産に指定されているような家並みでも、お土産店の店先になっていました。レストランや、カフェーなどもあり、時間さえ許せば、半日くらいはのんびりしてみたい雰囲気の街でした。
 お昼の時間になっていましたので、石畳の道をさらに進んで、石橋を渡りました。モルダウ川のS字カーブの狭まった箇所に掘られた水路の上に架かった橋でした。
 レストランは、石畳の道を過ぎて、川沿いに少しだけ歩いた場所にありました。窓から見る景色も素晴らしく、中々お洒落な造りのお店でした。魚料理でしたから、白ワインをグラスで注文しました。

<チェスキー・クロムロフ城>
 チェスキー・クロムロフ城は、チェコ国内ではプラハ城に次ぐ規模を誇り、13世紀に創建されました。当時、ボヘミアで力が強かったヴィートコヴィッツ家の分家の居城として造られました。
 その後、領主が代わる度に増改築が行われ、16世紀にロジェンベルク家がルネッサンス様式に、18世紀初頭には、エッゲンベルク家がバロック様式に、さらに18世紀後半にはシュヴァルツェンブルク家がロココ様式に模様替えをしています。現在見る姿は、それらの様式が複合した建築となっています。
 石段を登り、さらに石畳の坂道を登ってお城の中に入ることが出来ます。そこから一望するチェスキー・クロムロフの街は、まさに映画で見る中世の街、そのものでした。
 1784年に造られた「仮面大広間」は、ロココ様式の傑作とされますが、残念ながら、お城の部屋の中まで見学する時間はありませんでした。理由は分かりませんでしたが、お堀跡と思われる場所に熊が飼われていました。丸々と太っていましたが、冬眠前の脂肪を蓄えていたのではなく、単なる肥満のようでした。バナナやリンゴのような果物が、山ほど餌場に置いてありました。

<再び、ウィーンへ向けて出発>
 教会と岡の上の城砦を早足で巡りましたので、少し慌しいチェスキー・クロムロフの見学となりました。見学を終えた後、再びウィーンへ向かって出発です。プラハからチェスキー・クロムロフまでは約180キロでしたが、今度はウィーンまで、約270キロの長旅です。
 チェスキー・クロムロフはプラハのほぼ真南になり、チェコの南部に位置しています。暫く走ると国境に達しました。国境での写真撮影は禁止されていると、ガイドさんの注意がありました。それとなく、監視されているようです。もし見付かった場合は、カメラかフィルムの没収があるようです。建物の中は、こちらから見えないようにブラインドが下りていました。
 しかし、実際の国境警備の雰囲気に、厳しいものは感じませんでした。専らトラックの荷物検査に力を注いでいるようでした。こちらのレーンは長い列がありました。
 途中、2度ほどの休憩をとって、ウィーンまでひた走りでした。走っている内にサンセットとなり、やがて暗闇に包まれました。

<ホイリゲでの夕食>
 ウィーンはオーストリアの中東部のドナウ川の南に位置しています。プラハからは、やや東に位置していますが、ほぼ真直ぐの南下となりました。日がすっかり暮れましたので、ホテルにチェックインする前に、夕食です。順調なバス移動でしたから、勿論、予定通りのコースです。
 今晩はオーストリア風の居酒屋、ホイリゲで、民族音楽などを聴きながら夕食です。バイオリンとアコーデオンの軽妙な演奏と、ワインを楽しみました。今回旅行での夕食の中では、一番記憶に残りました。
 ところで、ホイリゲは単なる居酒屋ではなく、自家製の葡萄酒が提供されるウィーンの居酒屋のことを呼んでいるようです。ガイドさんのお話では、修道院で造られたワインが提供されているようでした。
 フリー百科事典の『ウィキペディア』から少し詳しく引用しておきます。
 17世紀後半、トルコとの戦争でウィーン市内ではワインを入手しにくくなったため、人々がウィーン郊外の農家に自家製ワインを買い出しに行くようになったのが始まりとされます。
 1784年、神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世がウィーンの農家に販売許可を発令して以来、毎年11月11日に樽を開封し、向こう1年間、その年の新酒を販売するようになりました。ホイリゲとは、本来「今年の」新酒を指します。その後、自家製ワインと簡単な食事を提供する店の営業が許可されたのをきっかけに、自家製のワインと郷土料理を提供する居酒屋を、「ホイリゲ」と呼ぶようになりました。
 食事の最中に演奏される小グループによる郷土音楽は、シュランメル音楽と呼ばれています。これは、19世紀半ばにウィーンで活躍していたシュランメル兄弟がホイリゲで演奏を始め、評判になったのが始まりといわれます。

<電車で外出、ホテルのバーでワイン>
 ホテルへチェックインの後、直ぐに電車で外出しました。電車駅はホテルから歩いて10分以内の場所にありました。迷子にならないよ、駅の名前もデジカメに写しておきました。
 切符の買い方も、ガイドさんからお聞きしていましたので、1ステップごとデジカメに収めました。こちらは写真編でご覧ください。表示画面を英語に切り替えることが出来ました。
 電車は程なくやってきました。時間は22時を少し回ったところです。乗る前に、終電車も念のため調べておきました。最低料金の1.5ユーロで乗車できる、5つほど先の駅で降りました。
 乗った時は高架電車でしたが、降りた駅は地下鉄になっていました。階段を登って駅前に出ましたが、街路灯が点いているだけで、寂しい感じでした。駅前では、立ち食いの小さな屋台が1軒あるだけでした。商店街の方は、シャッターが下りて、ショーウィンドウの明かりだけが点いていました。
 居酒屋を探すのは諦めて、早々にホテルへ戻りました。1階にバーがありましたので、白ワインを飲んでこの日のお開きにしました。


  チェスキー・クロムロフで
 モルダウの流を南に遡り訪し街は今も中世

 城砦に登り望みしモルダウはその懐に抱く街あり

 昼なれど朝日の如く影長く片手翳して街眺めおり

  ホイリゲでの夕食
 ホイリゲは自家製ワイン酒場なり修道院で醸すその酒

 耳元に演奏を聴くホイリゲの至福の時過ぐ地酒ワインで

新井薬師...

2010/08/25 10:08:16

 東京都中野区新井にある新井薬師は真言宗豊山派の寺で新井山梅照院薬王寺と号する。天正4年(1586年)の開基で、本尊は、弘法大師によって手彫されたといわれる薬師如来と如意輪観音像である。古来より、子育ておよび眼の治癒にご利益があるとされている。寛永元年(1624年)には2代将軍徳川秀忠の第五子、和子(後水尾天皇の中宮。明正天皇の生母)が罹った眼の病気が当薬師如来に回復祈願したところ、たちまち回復したことから、特に眼病治癒のご利益に関して有名になった。
 新井の名は当地で新たに井戸を掘ったことに由来するもので、境内にある井戸水(白龍権現水)は、一般の人に開放されており、多くの人が車で水を汲みに来る。汲むボトルの数を制限しているのは水汲み客の多さのせいであろう。ちなみに、数量制限がある水場は初めてだ。戦前は水が良いと言われた横浜でも最近では生で飲める湧水は非常に少なくなってしまった。しかし、Webで見ると東京23区内には以外にも井戸水・湧水が多くある。京都も井戸水・湧水が多くあるが、開発が最も進んでいる東京23区内にも、こうした寺社内に水場が維持されて来たのだろう。
(表紙写真は新井薬師本堂)

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